白内障寄稿文

【 更新日:2013/07/06 】

がん患者の会「かたくりの会」会長さんから頂いた寄稿文です。ご本人の許可を得ましたので、紹介させて頂きます。

白内障手術前後と目の話あれこれ ―焦点のあわない目・あう目・心の焦点―

Ⅰ手術前後

1.  手術前の自覚症状と心配
 遠くも近くも見えにくい状態が続き、焦点が合わない感じで輪郭がぼやけたり、二重に見えたりして不便だった。天気の良い日は眩しかった。読書の能率も上がらず困っていた。手術の日が決まり嬉しい反面、手術をされる目を閉じるわけにはいかないから見える。メス?なども見えるだろう…と手術に対して様々憶測し、気持ち悪さに恐怖心を抱いていた。そんな私の気持ちを察し、この医院で手術をした知人が、『痛くもなんともないわよ。あっという間に終わるわ。手術が終わって見る世界はまるで別な世界!』と励ましてくれた。女はお産という大役をこなすように出来ているから強い。覚悟はしても、いよいよとなったら気持ちが悪い。もし耐えられなくなったら気絶という自分で全身麻酔をすればいい、などと馬鹿なことを考え気をまぎらわしていた。

2.      手術当日 
病室に入り点滴をされる。針がうまく刺さらず、看護師さんは苦労していた。チクリチクリするので『きれいな花にはトゲがある』と笑わせた。点滴のしずくは私の気持ちなどに関係なく、砂時計ならぬ薬時計のしずくを機械的にしたたらせ冷酷な時間を刻んでいる。手術室に入った。理髪店の椅子のような椅子に座らせられた。座ったまま手術をするわけではなかろうと思っていたら、椅子は動き平らになった。そのうちに手術が始まりそうになる。もう俎上の鯉である。観念したというより、精神的に腰抜け状態である。手術が始まった。先生は『痛いときは痛いと言って下さい』という。圧迫感があった。ちょっと痛い感じもあったが、持続的なものではなかった。レンズのようなきちんとした形の2枚のものが見えたり消えたりする。先生と看護師さんが連携の会話を交わしながら手術をしている。
 気をそらすため、見えないということについて考える。見えなくなるということは、視覚が零になることだからこそ、想像力が100%になり、他の感覚器官も100%の能力を発揮するということだろう。盲人は闇の世界に素晴らしい想像(創造)を働かせて、より素晴らしい世界を築いているものだろう、と。

3.      手術翌日の様子
 目を十分保護した上に、ギッタ?とかいう、小さい穴がたくさんあいた金属製の眼帯をかけられる。この眼帯を両方の目にかければまさに複眼である。トンボの目である。 昨日も寒かったが、今日も真冬日で寒い。滑って危ないから娘の車で医院に行く。
 視力検査をする。0.1から1.0になっていた。先生は診察の際、良い結果で眼鏡も合っている、と嬉しいことを言ってくれた。取り入れる光の量が多くなったのか、回りが非常に明るく見える。それにテレビの画面も色鮮やかに奇麗に見える。蚊もいなくなった。仁術の手術に追放されたのだろう。
 滑りそうで恐いから、帰りも昨日同様タクシーで帰る。家は明るくなり、他人の家のような感じである。ちょっと新聞も見たが、はっきり見える。また、読書や原稿書きに精を出そうと思う。
 昨日の手術の日は、『2』がきれいに並んだ平成22年2月2日である。視力の回復にフフフフにと笑いたくなる数字の並びである。この2日間の経験を通して、聞き上手な看護師さんが多いと思った。私の話を上手に聞いてもらえたことも嬉しかった。

Ⅱ目に関する漢字の字源と表現

1.  ミルという漢字の数とその本質 
 私の持っている漢和辞典には『ミル』と読む漢字が24もある。『ミル』という行為は目でする行為なのだから、『ミル』と読める字には『目』『見』が付くと考える。ところが、『目』も『見』も付かない『ミル』が、10くらいある。何で何をどう『ミル』というのだろう。

2.  『察=ミル』の自己流の解釈 
  『察』の字のウ冠は家であり、『祭』の左上は肉を表し、右上は『手』を表し、『示』は祭壇である。祭壇に(神に)手で肉を捧げる、というのである。これを元にして自己流の解釈を試みる。ウ冠は家という入れ物だから命の入れ物であり、『祭』の左上の肉は肉体を表し、右上の『手』は人体という生命体の統一的機能を表し、『示』は祭壇であるから、人間は神の意思に従って(自然の法則・摂理に従って)生きている。その有り難い働きを『察る』のである。まったく自己流の解釈である。

3. 目線と視線 
 目線という言葉は、太平洋戦争後しばらくたってから使われ出した言葉である。(30年くらい前からだろうか?)ラジオで聞いた記憶によると、NHKの名物アナウンサーだった鈴木健二が作った言葉というらしい。目という漢字は、目の象形文字であり、無機質で味も情緒もない即物的漢字である。視線の『視』の左は『示』偏で祭壇である。祭壇は神への祈りを捧げる儀式に欠かせないものである。『祈りの心でみる』と私は思う。眼科医院の先生や看護師や検査技師の方々は、患者の病や視力回復・改善を祈って(祈にもちゃんと祭壇がある)治療にあたる。だから、視線は目線など比較にならない言葉である、と解釈する。だいいち眼科で『目力表』『目力』という馬鹿はいない。

4.  瞳と睛
 『瞳』の字源について、ある学者がこう想像している。お互いに相手の目をみると、『ヒトミ』の中にみている人が『小さな子=童』となってみえる。だから目と童で『瞳』という字が出来たのであろうと。
 『睛』も『ヒトミ』と読む。『青』が漢字の部分に使われる場合は、すみきった・きれい…という意味に解釈してだいたい通ずる。すみきった空は晴れ、きれいな水は清い、争いがきれいに処理されれば静か…というぐあいに。だから、すみきった目で『ヒトミ』ということになる。そして、『ヒトミ』は心を写す鏡でもある。

Ⅲナミダの別名と意義

1.ナミダの別名
 『ナミダ』に、『命の露』『空知らぬ雨』という別な言葉がある。私たちは人生の旅のいろんな機会にナミダを流すのである。だから『命の露』である。雨は空から降るが、空を知らない雨もある。だから、『空知らぬ雨』である。どちらも古風で趣のある言葉である。

2.      ナミダの意義 
 ナミダを単純に情けないものと解釈してはいけない。どんな時にナミダが出るか。純粋なもの・ひたむきなもの・犠牲的なもの・美しいものなどを見たり、聞いたり、ふれたとき、ナミダがでてくる。ナミダは心にある汚物を流したり、心を洗い清めたり、心に休息を与えたり、明日への活力を与えたりしてくれる。
 年齢や病気は、ナミダもろくする。私は視床出血によって感情の抑制が弱くなり、ナミダもろくなった。

Ⅳその他

1.みえるものを見るのは、五感の1つである目である。みえないものを診るのは、その人の人生経験の積み重ねによって育った心である。どちらも焦点を合わせることが大切である。人生に大きな影響を与えることは、たいてい『心で診る』ようなことが多い。だから心の焦点の合わせ方が大切である。

2.手術によって明瞭に見える五感の目を頂いたから、焦点がずれないでものが見える。その五感の視力を土台にし、みえないものも焦点がずれないように診たいものである。そのためには、勉強し、考え、日常の経験を無駄にしないよう心掛け、『人生の小春日和』を楽しみたいと思っている。

3.比喩的に考えるなら、2つの目の一方では理系の目で見る、もう一方では文系の目で診る、その両眼の焦点をうまく調節して『察る』ことが生きていく上での視力として大切なものであろう。

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